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友美のブログ

2013-11-17

亡き母 中村有里を偲んで

Category > その他

年若くして夫に先立たれ、幼い私たち姉弟を育てるために、懸命に働き続けてくれた母でしたが、旅立ちを迎えた今、母自身がその苦労多き人生を丸ごと愛しんでいるように思えてなりません。その母の優しく微笑んでいるような顔を見ていると「お母さん、本当にありがとう」と感謝の気持ちでいっぱいになります。

母有里は、昭和5年、5人姉兄の三女として三重県伊勢市で誕生しました。当時、生家は海産物店を営んでおり、無口で働き者の父親と旅行や芝居が好きな母親の元で育ちました。

店では鮮魚も扱っていたことから、母は幼心にその臭いに気後れし、お友達を家に招くことも恥ずかしく悶々としていたと、後年語ってくれました。

やがて、デザイナーに憧れた母は23歳のとき、兵庫県芦屋の田中千代服飾デザイン専門学校に入学しました。それは生家への反感の裏返しとしての、美しさへの憧れでもあったようです。そして卒業と同時にこの学校に勤務することになりました。

その後知り合った父と26歳で結婚し、住居を名古屋に構えてからは、名古屋の田中千代服飾デザイン専門学校の講師として勤め、途中子育てのために3年ほど休職しましたが、50歳まで同校で勤め上げました。

しかしこの間、母は苦労の連続でした。昭和39年、母が34歳のとき、父が突然の交通事故で帰らぬ人となってしまったのです。私が4歳、弟は2歳のときでした。当時父はアメリカに赴任することが決まっていたこともあって、母は「お父さんはアメリカに行っているんだ」と自分自身に言い聞かせては、受け容れがたい様々な試練のときを乗り越えたそうです。

とにかく母は懸命に働きながら、私たち姉弟を育ててくれました。時には屋根に上ってアンテナを取り付け、時には大工仕事をして父親代わりを果たしてくれました。一方「片親だからしっかりしなさい。後ろ指をさされないようにちゃんとしなさい」が母の口癖となっていきました。

そのような母でしたが、母の心の中には「なぜ自分はこのような人生を歩まなければならないのだろうか」という疑問があり、その本当の解答に至る鍵をずっと探し求めていたようです。

母は高橋先生が説かれる「魂の学」を私と一緒に学び、自らの運命を知り、運命を超え、運命に打ち勝つ鍵を手にすることができたのです。

とりわけ母は、恥を気にする自分や他人の目によく映りたいという自分を発見し、その縛りからも自由になってゆきました。幼い頃、菜っ葉服を着て働き通しだった実家の父に向けた拒絶の眼差しも「本当に申し訳なかった」というお詫びと感謝の思いに変わってゆきました。

去年の6月、母が肺がんであることがわかりました。武者小路実篤の「仲良きことは美しき哉」をという言葉を座右の銘にし、親子の絆を確かめ合い「病院のベットの上でも自己ベストを尽くします」と魂を抱く人として強く優しく、また穏やかに生きて見事旅立っていきました。私も母のバトンを引き継ぎ、皆さんに喜んで頂けるよう頑張ります。

中村友美の『県議会レポート』

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